時が止まっているようだ、とトミー=タッペンスは思う。
一歩足を進めれば、300年もの間に積もった埃が舞い、フラッシュライトに照らされる前方が白く揺れる。マスクをしているために咳き込むということはないが、視覚から得る情報だけでも、息苦しさを覚える。
ブランブルグ。その地下に位置する遺跡は、魔動機文明と古代魔法文明のそれからなる複合遺跡だ。そのうち、魔動機文明に位置し、中でも、複数の図書研究施設を結んで構築されていた網状図書館。その一角をなす研究所の中を、黒毛のタビット──トミー=タッペンスは歩いている。
「なるほど。情報通りだね」
資料室、とプレートに記された部屋。そこに並ぶ本のひとつを無造作に取り、開く。かつての文明の為せる技か、紙質にさほどの劣化は認められないが、異常が一つ。全てのページが白紙なのだ。
グォールと呼ばれる知識を喰らう魔神。その棲み家となっていたこの研究所は、紙に記されたあらゆる文字情報が喰われていた。直接刻まれたプレートや、本の表紙に打たれた書名の一部こそ残っているものの、それ以外の文字情報は、パンフレットの1枚に至るまで、すべて消失している。
「加えて、メモリア君の記憶も、か」
メモリー・ラストナンバー。この研究所に最初に入った冒険者たちに救い出され、名付けられた、魔動機文明時代のルーンフォーク。彼女は、〈マンティコア・プロジェクト〉と呼ばれるプロジェクトの最終個体であり、マンティコアの英知と同期することで、魔動機文明時代にあってすら喪われていた知識にアクセスするための実験体だった。
その実験が成功していたのか、失敗していたのか、それはもう確かめるすべがない。救出されるおり、知識魔神グォールに取り憑かれた彼女から、あらゆる記憶は失われてしまったからだ。
残ったのは、ラストナンバーという、識別名だけ。
「所長」
背後から声をかけられ、トミーはその身体を薄く震わせた。振り向いたトミーのフラッシュライトが銀の髪を持つルーンフォーク──メモリアを照らす。その顔を見て、表情が読みにくいな、とトミーは思う。「彼女」とは──違って。
「今このときは研究員だよ。メモリア君」
所長。探偵事務所長。冗談のようなものだ、探偵などというのは。トミー=タッペンスは、仕事の合間にちょっとした事件の解決に取り組むことはあったが、実のところ、自分がそういった能力に長けているとは思っていない。ただ、虚勢として──あるいは面白いから──そう言っていただけのこと。
「ReC. ──調査中の研究員の方が、上階で発見されたものがあると」
資料室を出て、破損していたエレベーターの方へと歩く。廊下に備えられた手すりは、ずいぶんとしっかりしたものだ。誰か、かつてこれを必要としていたものがいるのだろうかと、トミーは考える。
あの日のあと。手紙が、届いた。
助手。それもまた、冗談のようなものだ。ひとりっきりの探偵事務所。それは、本来「事務所」と呼ぶようなものでもなく、ただの遊びに過ぎない。だが、そこに自分を所長と呼び、彼女自身の目的を達成するために遊びに付き合ってくれた、のんきなメリアがいたのだ。
彼女、リリィ・ファウンデルが、余命幾ばくもないことは、すぐに気づいた。そして、彼女自身も、トミーに気づかれたことを知っていた。
「(それを言葉にしなかったのは──恐かったからでもあるが)」
むしろ──楽しかったからだろう、とトミー=タッペンスは推測する。リリィが、というだけではない。自分も、だ。幼い、探偵ごっこ。もちろん、取り扱うのはそれなりに深刻な問題でもあったのだが、彼らのそれは、戯れの一種だったのだろうと思う。
手紙には、少しは身体を動かしたほうがいいということ。ひとりになったあと大丈夫かということ。メモリアの世話をしっかりしてほしいということ。そういったあれこれが、まったく、おせっかいもいいことに書かれていて、そして──もう助手ができないことを、謝っていた。
「謝ることなど、なかったのにね」
エレベーターの前に立ち止まり、そう口にすると、メモリアが不思議そうな顔をしてこちらを覗き込んでくる。なんだ。そういうわかりやすい表情もするのか、とトミーは思い、口元だけで笑う。
「所長、いえ、研究員。これでしょうか」
エレベーターの前に積まれていたのは、木箱だった。その表面には、《ラストナンバー用・緊急装備》と刻まれたプレートが着いていた。
「メモリア君のために用意されたもののようだね?」
開ける。中にあるのは、左右一揃えの投擲武器──トライエッジと呼ばれる、魔動機文明時代のSS級装備だった。
「特段に特殊な加工の類はなし、か。現状でもわずかに流通しているものとほぼ同様。一応は、検査に回すことになると思うけど、君が使っていいんじゃないかな。メモリア君」
「当機が、ですか」
君のために用意されたものだろう──と言いながら、トライエッジの表面を撫でる。冷たさの中に吸いつくような触感を感じさせるその刃は、過去において、それが時間をかけて手入れをされていたことを思わせるものだ。メモリー=ラストナンバーには、現代への適応を進めていく中で、インストールされていた高度な戦闘プログラムが今なお健在であることがわかった。知識を取るための実験体ではなく、いずれ、外に出ることが想定されていたのだろうと、トミー=タッペンスは推測する。
「君は、現代に遺され、僕たちとともにいる。その意味は──そうだね、僕が語ることではないかな」
言って。不思議そうな顔をしているメモリアには、まだ、そういったことを考えるには早いだろうと、トミーは思う。
「(いや──そうじゃないな。僕だって、早いんだ)」
遺された。ほんの数ヶ月、傍らにあって咲いていた、あの白百合。彼女が逝って、そして、遺してくれたもの。そのことの意味を、トミー=タッペンスとて、まだ知り得ない。
だったら。
「さて、いこうか。新たなことを知り──そして、わかっていくために」
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